『お國と五平』から『文化なき国から』へ

2014年の同志社大学の学生会館での旗揚げから8年。戦略的に立ち回って、ようやく東京で単独公演するところにまでたどり着いた。ただ、ここで息切れしている場合ではない。やりたいことはいくらでもあり、湯水のように沸いてくる。ほとんどのことは、金があれば解決する。そして金がないので、何らかの権威や権力に阿らざるを得ない。しかし、権威や権力に阿らないで、金がないのにやりたいことをやっていく方法が一つある。「人権を侵害すること」である。例えば、キャストやスタッフを、薄給でこきつかう。例えば、自分自身の生活を演劇にすべて提供する。自分自身を犠牲にする姿を見せてしまえば、忖度してもらえることもあるかもしれない。つまり、自分自身が権威や権力そのものになってしまえばいいわけである。権威・権力との闘いのなかで、闘う本人が新しい権威・権力と化すという流れは、革命物語でよく描かれてきた。それはフィクションのなかではなく、現実の歴史のなかに刻み込まれ、傷として今もなお遺っているし、傷の再生産もいたるところで続いている。どうするべきか。人権も侵害せず、かといって権威や権力に阿らないでいられる方法はあるだろうか。今のところ、思いつかないので、人権を侵害せず、権威や権力に阿る方向で進めてきている。

『お國と五平』の演出では、こういう政治的な思考は影を潜めた。しかし、それがまったくなかったわけではない。柳美里氏が審査で看破したように、ドラム缶を証言台、観客席を傍聴人席に転換させた演出は、私刑を是としない近代の制度とかたき討ちを認める前近代の制度の差異を意識するところから着想したものであった。制度が変わっても、人間は変わらない。

『文化なき国から』は、一方でどう捻っても政治的なものにしかならない。演出はそこからどのように逃れていくべきか、というのが主題になってしまうかもしれない。いっそ戯曲ごと書き換えてしまうか。第1稿はすでに1年前には出来上がっていて、個人的な目標だった「俳優オファー時に第1稿完成」を達成することができた。しかし、いちど書きあげてしまったものを、どうブラッシュアップすべきか、演出家としての思考と劇作家としての思考が混線していまいち纏まらない。東京から帰ってきて、昨日の今日ではあるけれども、いい加減整理していかなければ企画が進まない。俳優たちとの稽古もある。全員劇団なかゆびに初参加で、稽古で初対面の俳優もいるから、予測不可能な創作になることは確定している。これまでの稽古の進め方のなかで、培ってきたものもある。よい作品になることを願うのでなく、自分の力でよい作品にするしかない。

ところで、『お國と五平』でいただいた感想のなかで、「新作も見てみたい」というコメントを複数もらった。とても嬉しい限りである。次の東京公演は是非とも新作を引っ提げて挑みたいものである。劇団員たちも気が早いもので、すでに新しい公演のスラックのチャンネルが動き出した。ボーっとしていたら、すぐに2023年が明けてしまう。

2022年11月23日

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