劇評「幸のナナメ」(BokuBorg)

『幸のナナメ』団体:BokuBorg

作・演出:川本泰斗

劇場:スタジオヴァリエ

観劇日時:2017年3月19日 19時開演
スタジオヴァリエについて(序にかえて)

    スタジオヴァリエで本格的な劇場運営が始まってから1年が経った。2016年3月に舞台監督、役者として利用してから、管理劇団である劇団とっても便利をはじめとして、すでに数多くの団体が利用している。利用団体にとっての運用の利便性がどこまで高まっているかはわからない。しかし、京都の劇場が相次いで、閉鎖されるなかで、スタジオヴァリエの重要度は今後増していくだろう。

「みんな貧乏が悪いんや」(岡林信康「チューリップのアップリケ」1969年)
経済的に余裕のない親にとって、子どもは重荷でしかない。子を愛することが許されているのは、子どもを重荷と感じないだけの収入と子どもと向き合うための時間の両方を持った親だけである。雇用がモジュール化され、「妻」の無償の家事労働提供という前提が機能しない昨今、本上演は家族関係を捉え直す機会となるだろう。

かつての家族観の残像は未だに強く残る。労働する父がいて、家事をする母がいて、子がいる。それが「自然な」家族形態であるし、そうでない家族の子どもは、その「不自然さ」のために、精神を歪められてしまう。勿論、それは反証されてきた。客観的には満たされていても、主観的には満たされない子どもの犯罪は、「不可解な」あるいは「身勝手な」行為として、究極的には精神異常という心理学的根拠を与えられることで類型化され、ドラマとして受け入れられる。

かつての家族観の残像は問題の所在をわかりにくくする。憲法に反して、人間は生まれながらに不平等なので、生まれた環境が子どもを強く縛り付ける。自由などありもしない。母から娘へ、その娘が母になり、また娘へと繋がるのは、人によっては鎖であるし、絆でもある。この劇では前者の側面が取り上げられていた。
     社会心理学者フロムは、我々近代人の関係について以下のように述べている。

近代人の孤独感、無力感は、かれのあらゆる人間関係のもっている性格によって、さらに拍車をかけられる。個人と個人との具体的な関係は、直接的な人間的な性格を失い、かけひきと手段の精神に色どられてしまった。市場の法則があらゆる社会的個人的関係を支配している。競争者同士の関係は、相互の人間的な無関心にもとづかなければならないことは明らかである(フロム(日高六郎訳)『自由からの逃走』東京創元社、1964年、135頁)。

無関心に基づく客観的関係は容易に絶つことができる。だから、資本主義的競争は成立するのであるが、親子関係までそれに巻き込まれてしまう。娘が家を出て行く時、母は不要なものとしてあっさりと切り捨てられてしまう。劇場という限られた空間で行われるのが演劇なので、当然ではあるが、出て行った先、<外>で娘が何を体験したのかはわからない。結局、「家」に戻ってくる。定住の感覚は染み着いてなくならない。遊牧民的感覚は、すぐに消え去ってしまう。それは錯覚だったのである。定住からまた別の定住へと移動したにすぎなかったのである。考えてみてほしい。独り暮らしを始めたばかりの頃の新鮮さを。それを徐々にすり減らしていく生活を。あるいははじめて外泊したあの夜を。次の日、帰宅するや否や襲われるあの安堵を。
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劇中、過去が説明される。それは記録以上の意味を持たないだろう。だからこそ、奥行きのない映像によって、語られたのである。劇は時間を軽快に飛び越えていく。それは断片的な記憶のあり方そのものである。八〇年の人生も、八〇分の演劇に要約することができる。入り交じる記憶の再生。人生も、歴史も、断片を抜き取って要約することでしか、語ることはできない。しかし、徐々に浮かび上がってくるのは、「あの日と同じ」=「不変の」<私>の所在である。

    最終場面の演出では、その場の出来事が映像に同時に投射される。過去、記憶を辿る旅を経て、今へと戻ってくる。我々が常日頃やっていることである。漠然と過去を思い返す。我に帰ると、眼前に現在進行形の世界が拡がっているのである。ある日常がごくごく自然に舞台に昇華された、嘘がない劇であった。
(主宰 神田真直)

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